私の履歴書(お前もラグビーか!)
OB 高田哲インタビュー

筑紫丘高校ラグビーがくれた人生の宝物

35回卒 高田 哲
(筑波大学ラグビー部1987年度主将、元コカ・コーララグビー部マネージャー、筑紫丘高校ラグビー部OBOG会副会長)

ラグビーを始めた時期・きっかけは?

ラグビーを始めたきっかけは、昭和54年(1979年)11月に福岡高校との決勝戦で筑紫丘高校が54対6の大差で勝ち、32回卒の先輩方が全国大会初出場の切符を手にしたのをテレビで見たのがきっかけです。

当時中学3年生だった私は、高校に進学したらラグビーがしたいと思うようになりました。

高校時代一番の思い出は?

高校3年間は、すべてがラグビーの悔しい思い出ばかりでした。

1年次は、「2年連続花園出場」を目標として、当時コーチだった故白木先輩が後年「矢ヶ部(角さん)が3年の時が一番練習した」と言わしめたほど、とにかく練習しました。1年生だった私達は、とにかく「きつい、辞めたい」と何度も思いました。同期の新入部員は40名くらいいたけど、1年次の終わる頃には半分くらいに減りました。

高校2年の春に、近藤先生が着任されました。近藤先生は心に秘めた思いを理論的に語り、私たち選手の心を熱くさせる「知的な熱血指導者」でした。伏見工業高校をモデルにした「スクール・ウォーズ」が流行った時期でもあり、近藤先生が東京教育大学(現筑波大学)出身であることから、いつしか体育の先生になりたいと思うようになりました。

この頃、グラウンドの改修工事があったためグラウンドが使えない我々は、修猷館高校など各地の高校に出張練習に行きました。シーズンが深まると野多目の九州がんセンターのグラウンドで保護者の車のヘッドライトで日が暮れても練習しました。

2年次は決勝戦で福岡高校に0対6で負けました。終始スクラムを押していたけどトライすることはできず、ちょっとしたミスでトライを許し(当時トライは4点)花園出場は叶いませんでした。

3年次にはキャプテンになりました。当時福岡高校が2連覇で古豪復活と言われていた時期で、我々は新人戦も九州大会も思うように勝てませんでした。ひとつの転機は大口高校での合宿で、ラックからの早いテンポでBKに展開する戦術を繰り返し練習しました。全国大会の予選は準々決勝で福岡高校と対戦し、前半リードするも3対4で負けました。

私の高校3年間は福岡高校の3連覇で、只々悔しさが残る3年間でした。

悔しくてしょうがない。現役引退後は早稲田大学ラグビー部のセレクションを兼ねて受験しましたが不合格となり浪人生活に入りました。しかし高校時代の悔しさから関東大学ラグビーの対抗戦グループで頑張ってみようと思い、筑波大学を目指しました。

高校2年次、福高との決勝で敗戦
高校3年次、福高との準々決勝で敗戦

卒業して、改めてラグビーへの思いは?

(1)悔しさをバネに飛躍の筑波大学時代

1年浪人して筑波大学に合格し、ラグビー部に入部しました。

筑波大学では推薦入試制度があり、高校日本代表か全国大会でベスト4以上の成績者が毎年4~5名入学し、80名の部員のうち18名程が推薦入試組でした。浪人して一般入試で入部した1年次は特に推薦組とのレベルの差を感じました。しかし心強かったのは、1学年上に藤山卓也(英心)さん(現早稲田佐賀高校ラグビー部顧問)がいて、同期に小中高校の同級生だった伊藤政文(元航空自衛隊一等空佐)、1学年下の筑高ラグビー部キャプテンだった樋口武史(元古賀市役所)がいたことです。

筑波での1年次は矢ヶ部さんが早稲田のキャプテンで、早明戦で国立競技場を満員にするほどの大活躍をされていました。「いつかは自分も!」と思うようになり、まずは「3年でレギュラー獲得」を目標にしました。夏休みは毎年、筑紫丘高校で練習して高校生と汗を流しました。「ランパス不要論」を提言し先輩OBに随分叱られましたが、近藤先生から理解してもらい「スキル練習と筋力トレーニング」を後輩達に勧めました。その効果があったのか38回卒のメンバーが2回目の花園出場をしてくれたことはとても嬉しかったです。

3年次でレギュラー(No8)になり、当時の4強だった慶應と日体大に勝って対抗戦グループの3位になりました。当時は筑波旋風といわれラグビー雑誌にも大きく取り上げられました。

4年次でキャプテンになり(一般入試での入学者がキャプテンになるのは珍しかった)、前年を上回る成績を目指すことにしました。1学年下に現東芝ブレーブルーパス社長の薫田や現山梨学院大学教授の梶原など大学でも特出した才能をもつ後輩達にも恵まれ、早稲田には0対3で負けましたが慶應と明治に勝ち、対抗戦グループの2位になりました。私は4年次のシーズン後半から肩や首の怪我で試合に出場できない時もありましたが、筑波大学ラグビー部の歴代最高の成績を収めることができました。

当時1987年は39回卒の郷田君が早稲田の1年生で、「雪の早明戦」や早稲田が大学選手権で優勝、社会人優勝チームの東芝府中にも勝って、早稲田が学生で日本一になるなど今でも語り継がれる年度です。

1986年度対日体大の試合後@秩父宮ラグビー場(雑誌ラグビーワールド)
1986年度対明治戦@秩父宮ラグビー場 ボールを持ってアタックしているのが著者

(2)高校、大学の経験を活かしたコカ・コーララグビー部のマネージャー時代

就職は福岡県の教員採用試験を受験したが不合格となり、北九州コカ・コーラ(現コカ・コーラボトラーズジャパン)に入社しました。3年ほどラグビー部に在籍しましたが、怪我が長引いたこともありラグビーから離れ、とにかく仕事を一生懸命頑張りました。

39歳で社長秘書となり、秘書業務をしながらラグビー部のマネージャーになることになりました。会社が元日本代表監督の向井昭吾さんを招聘してカンパニースポーツとして3年でトップリーグに昇格することを目標にしたのです。

私はスタッフ体制や練習時間の見直し、外国人選手の採用や選手の人事異動など、秘書業務をしながらラグビー部の仕事を脇目も振らずに頑張りました。またラグビー部員が仕事もラグビーも本気に取り組ませるように「ラグビーの評価制度」を導入し、ラグビーを引退した選手が仕事でも活躍できるように「セカンドキャリア」に目を向けさせました。

部員の潜在的な本気度を引き出すことに注力したらラグビー部はどんどん強くなり2年間でトップリーグに昇格しました。社長秘書は4年、そのうちラグビー部のマネージャーは3年間務め人生で一番仕事し、一番充実していた時期でした。

1987年筑波大学ラグビー部特集(Number186号)中央が著者

“あなた”へのメッセージ

「お前もラグビーか!」

飲み屋で近くの席の人がラグビーの話をしていると「お前もラグビーか!」と見知らぬ人でもすぐ打ち解け、すぐに仲間になる。そこには「お前もあんなきついスポーツをやっていたのか!」という意味が含まれるという人もいるが、ラグビーには出身校がどこであろうとラグビー経験者を仲間として受け入れる、そんな文化があります。

ラグビーは「ポジションごとの異なる特徴を持つ15人制」、「One for All(自分を犠牲にして他者を活かす)」など、社会の縮図のようなスポーツです。ラグビーの上手い、下手は関係ありません。後輩となる皆さんには筑紫丘高校を卒業してもラグビーをやり続けること、そして「お前もラグビーか!」と言い合える仲間を大切にして欲しいと思います。

最後に

今回、筑紫丘高校ラグビー部創部80周年記念式典の運営に携わりましたが、その過程でたくさんのOBOGが、いろいろな分野で活躍されていることをあらためて知りました。

筑紫丘高校ラグビー部OBOG会の魅力は昔から先輩が先輩面(ヅラ)をせず、後輩の存在を認めフラットに接してくれるとてもいい組織です。

後輩となる皆さんに対しては、今後もより一層ご活躍されることを祈念するとともに、OBOG会メンバーとして一緒になって現役支援を継続していきましょう。